ひみつの庭でししおどしが鳴る。詩人石川丈山の終のすみか・詩仙堂【MUUSU京都版vol.3】
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コケの皆様、こんにちは。
すっかり暑くなりましたね。
今年の梅雨はどうなるか、気がかりのかたも多いかも。
今回ご紹介する物件は、左京区一乗寺の詩仙堂。
近くには、「恵文社一乗寺店」もあります。
≫【前編】「恵文社一乗寺店」 若き書店マネージャー 鎌田裕樹さんが目指す恵文社の新しいカタチ
「一乗寺」は、昔この地にあり、戦国時代に焼失したお寺の名前。
「一」は唯一絶対、「乗」は仏教の悟りへ運ぶ乗り物のことです。
一乗寺の曼殊院道を東へ(山の方へ)登っていくと、「小有洞(しょうゆうどう)」と書かれた門が見つかります。
ここが詩仙堂の入り口。
石川丈山(じょうざん)によって建てられた草庵の一室「詩仙堂」が現在、庭もふくめた全体の呼称となっています。
簡素なつくりの山門からは意外なほど、彩りゆたかなお庭でした。
ししおどしの鳴る庭・詩仙堂
詩仙堂は「丈山寺」とも呼ばれ、もと徳川家康に仕えた石川丈山が造営・隠棲した草堂です。
丈山はここを「凹凸窠(おうとつか。でこぼこした土地に建てた庵の意)」と呼びました。
「詩仙堂」はほんらい、草庵内にある、中国の唐宋詩人36名「三十六詩仙」を四方の壁に描いた部屋の名前。
平安時代の三十六歌仙にならい、丈山が林羅山(儒学者)と相談しつつ詩人を選定しました。
絵はすべて狩野探幽の手になるものです。
石川丈山について・概略
1583年10月、本能寺の変の翌年に三河国(現在の愛知県安城市)に生まれます。
大阪夏の陣後、代々仕えた徳川家を離れ、隠遁生活を始めました。
隠退してからは学問や漢詩にしたしみ、儒学者の林羅山らと親交をむすびます。
1641年、丈山は「世を避けて遊ぶために」一乗寺村に詩仙堂を造りました。
隠棲するつもりで建てた詩仙堂ですが、多くの人に知られるようになり、来客を断りきれなくなったため、1652年、丈山は三河国に帰りたいと言いだします。
しかし、浪人の取り締まりが厳しくなるなか、帰郷は許されなかったようです。
1672年5月23日に丈山が没すると、友人たちのほか、百数十人の村民が会葬したといいます。
撮影日がちょうど丈山忌の法事にあたったため、庭のみの観覧となりました。
5月25日から数日間、丈山翁遺宝展が開かれています。
ししおどしは「我巨巨(がここ)」と鳴る
庭でかこん、かこんと鳴っているのは、ししおどしの音。
ししおどしはもと「添水=僧都(そうず)」と呼ばれる農器であり、かかしのように獣を追い払う役割をもっていたようです。
ししおどし(僧都)について、丈山は「我巨巨(がここ)の声を発揮す」(僧都詩序)と書いています。
物件概要
□最寄駅:叡山電車一乗寺駅
□日当たり:庭の白砂は日を浴びて明るく、周囲の森は光を吸い込みます。
□水まわり:すみずみを流れる水は「流葉はく(さんずいに陌)」。
流葉はくの水は、「洗蒙瀑(せんもうばく)」という滝から来ています。
周囲に花のある池「百花塢(ひゃっかのう)」、ししおどし(僧都)など、詩人丈山にとっても、水は重要な意味をもっていたようですね。
「空谷響を伝え、昼となく夜となく、遅からず駛(はや)からず。曲節度に中(あた)り、奇声心に適して、以て山潜の寂寥を潤色するに足る」僧都詩序
□コケ仲間の住まい
□ほかの住民:とかげ
□詩仙堂HP:http://www.kyoto-shisendo.com/
参考文献
石川順之・水野克比古(1995)『京の古寺から3 詩仙堂』淡交社
山本四郎(2002)『石川丈山と詩仙堂』(私家版)