似顔絵を描くのは、生きることのようなもの(前編)
特集 「わたしの住む街」
会いたい人と好きな場所がふえることで、今いるこの場所をもっと、好きになれるんじゃないだろうか。
「自分の住む街のことを知りたい」と思って始めたこの企画。京都の気になる人や場所を訪ねていきます。
第3回 インタビュー &NIGAOE 笑達(しょうたつ)さん
まえがき。
「かわいい」って何なのか?
うまく上がらないまつげを、ビューラーで挟みながら、私はふとそんなことを思う。
鏡から目線を外した先に、自分の顔と目が合った。笑達さんに描いてもらった、自分の似顔絵。
分厚い唇、頬にあるえくぼ。左右で大きく幅の違う、二重のまぶた。
ああ、どちらの目も同じ大きさだったらよかったのに。写真映りだって、多少はよくなるだろう、なんて。
私にはそれが、自分の顔の「欠点」のように思えた。
「でもこれはこれで、とても自分らしいんじゃないか?」
不思議だ。鏡で見たときには、そんなふうには思えなかったのに。
笑達さんの描く似顔絵をとおしてみると、私は、自分の顔の気に入らない部分まで、「これは自分のものだ」とうなづけた。
私は、自分の似顔絵をテーブルに飾っている。
そんなこと言うと、とんだナルシストだ、なんて思われそう。でも違う。(「なんか前に会ったことあるよね?」とよく言われる顔です。きっと平凡な顔なんだろう。)
笑達さんの似顔絵からは、その人がそこにいる存在感のようなものが伝わってくる。
「まあ、頑張ってみるか」
気分が沈みがちなときでも、この絵を見ていると、そう思える。自分がちゃんとそこにいる気がして、安心する。
「美しい」って何なのか?
「とても美しい人に会いました」
そんな言葉とともに、笑達さんのホームページにあげられていた、一枚の似顔絵。
ネパールで出会ったという、ひとりのおばあさん。その目にはまっすぐな光がともり、顔には、いくつものしわが刻まれていた。
「かわいい」って何だろう?
「美しい」って何なのか?
たとえ、まつげが上を向いてなかろうが、ファンデーションのノリがわるかろうが。
ただそれだけで、(それがすごく重要なときだってあるんだ!と認めたうえで)自分が侵されてしまうなんて、思いたくない。しわだってしみだって味方にして、(と言いつつ、日焼け止めは塗りたくるけど)願わくば私も、そんな「美しい顔」の大人になっていきたい。
似顔絵をとおして、たくさんの人に出会ってきたという笑達さん。
彼は、大学生のときに路上で似顔絵を描き始め、今はそれを自分の仕事にしている。
京都にアトリエをおきながら、日本各地、海外を訪れ、似顔絵を描いている。
どうして、笑達さんは似顔絵を描くのか?
どのように、自分の仕事をつくってきたのか?
知りたい。
このおばあさんの顔を、「美しい」と表現する笑達さんのことが、私は気になって仕方なかった。
似顔絵には、出会った時間の全部を込められる。
笑達さんに初めてお会いしたのは、似顔絵を描いてもらおうとアトリエを訪れた時だった。
「普通に動いてもらって大丈夫ですよ」
え、じっとしていなくていいの?
笑達さんに言われ、私は驚いた。
描いてもらう間は動いちゃいけない。そう思い込んでいた。
デッサンを描くときは、モデルがじっとしているけど、どうやらそんな感じではないらしい。
相手と話をするなかで、その人が見せる「いい表情」を絵にしたいのだと笑達さんは言う。
「似顔絵には、出会った時間の全部を込められる」
だから一瞬の表情を切り取るということはしない。この顔が素敵だと思えば、その表情を重ねるように描き加えていく。
「それがこの人の顔ですって、そうやって思い浮かべるものって、ひとつじゃないと思うんですよ」
その言葉を、私は今もときどき思い出す。
私が、その人として覚えている顔は、その人が私に見せる表情の重なりで。いくつもの表情が重なった、残像のようなものを、思い出しているんじゃないかって。
私が苦手なあの人の顔は、誰かにとって、「すごくいい笑顔」で思い浮かぶのかも知れない。
私が好きなあの人の顔は、誰かにとって、「なんていじわるな顔」と映っているのかも知れない。
「お前の顔はこれだ」と、ひとつに決まっている、なんてことはない。
ひとつじゃない。
笑達さんの話を聞いて、私は自分の気持ちが軽くなった気がした。
路上での出会い。
笑達さんが似顔絵を描き始めたのは、大学生の時だった。
芸術大学に入学した笑達さんは、受験からの解放感というのもあり、しばらくぼんやりと過ごしていた。
学校の授業には出るものの、自分では何も作らない。そんな日々が、2、3カ月ほど続き、あるとき思い立った。せっかく芸大に入ったのに、自分は何もしていないじゃないか、と。
何か描こう。そう思った笑達さんは、人の顔を描いてみることにした。特にこれという理由はない。ただ何となく側にあったCDが目に入り、ジャケットに映る人物を描いてみた。ボブ・マーリーの似顔絵。
「もっと身近な人物を描いてみたら?」
そう周りに言われ、今度は家族や友達の絵を描いて見せると、「いいやん」と反応が変わった。
笑達さんは、身近な人をモデルにして、似顔絵を描くようになった。
先輩に誘われ、自分の描いた絵のポストカードを、路上で売る。
でも、全然売れなかった。
家族や友達の似顔絵といっても、買う人からすれば、それが誰だか分からない。
知らない顔を並べても、誰も手に取ってくれない。
「それもそうですよね」と笑達さんは笑う。
一度、画材を持って出てみたらどうだろう?
そう思って、画材をかたわらに、路上に座っていた。
隣りでは、先輩が楽しそうに、お客さんと話していた。
この人を、描かせてもらえないだろうか?
笑達さんはふと、そんなことを思いついた。
「僕、学生で、こういう人物画を描いているんですけど」
お願いしてみると、その人は快く応じてくれた。
笑達さんいわく、「めちゃくちゃヘタクソな絵」だったらしいが、似顔絵を渡すと喜んでもらえた。
「これ、いくらですか?」
その言葉は、思ってもみないものだった。
自分が声をかけたのにとんでもない。お金はいらないので、よかったらプレゼントさせてください。
そう言って、似顔絵を手渡した。
なんだか、相手と繋がれた気がする。その感覚は、ただポストカードを売っていた時には、感じたことのないものだった。
「次、私描いてください」
似顔絵を描いている様子を横で見ていた人が、声をかけてくれた。
自分はヘタだから。そう思い断ろうとすると、「お兄さんの絵が気に入った」のだとその人は言う。
「値段をつけてほしい」
描きあげた似顔絵をプレゼントしようとすると、相手はそう口にした。
自分が欲しいと言ったのだから、いくらでもいい。値段をつけてほしいと。
ヘタクソなのに、いいのだろうか?
「じゃあ、100円いただいてもいいですか?」
迷った結果、笑達さんはそう言った。それでは安すぎるというお客さんを、「自分はまだ駆け出しなので」と断り、100円をもらった。初めて、似顔絵がお金になった瞬間だった。
路上で似顔絵を描き始めた笑達さん。
初めて路上に出た時は、隣に先輩がいたから心強かった。
それをいざひとりでやろうと思うと、勇気がいった。
「シートを広げるまでが、最初は緊張しました」
同じ場所を行ったり来たりしながら、迷った。
やっぱりやめようか。でもせっかく、ここまで来たのに。
最初は、シートを広げるまで、1時間ほどかかったと言う。
こうして、笑達さんは路上で似顔絵を描き始めた。
自分がない?
当時は、自分に全然自信がなかったという笑達さん。
僕は自分がない。でも自分って何なのか、よく分からない。
周りのみんなが、個性や自分というものを強く持っているように思えた。みんな自分の意志をはっきりと持っている。でも僕は、なんだか中途半端で、すぐにブレてしまう。
「自分がない」ということが、当時はすごくコンプレックスだったと話す笑達さん。
自分を変えたい。どうしたら、自分を変えられるのだろう?
ひとりで、知らない環境に飛び込んでみれば、何か、変わるかも知れない。
大学2回生。
笑達さんは、「お遍路」の旅へ出ることにした。
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