「七口=七つの口」じゃない? 全国と京都をつなぐ「京の七口」
京都で電車やバスに乗っていると、なんとなく気になる駅名、停留所名。
鞍馬口、荒神口、丹波口……京都の「口」とはいったい?
これらは「京の七口」と呼ばれる、京都の出入り口をしめしています。
私たちが呼吸をしたり食物を摂取したりするときにつかう「口」。
三方を山に囲まれた土地、京都にとっての「口」もまた、人やものの往来する、都と各地を繋ぐ重要な場所でした。
「七口」≠七つの口。「京の七口」とは?
「七口」というからには、七つの口があるのでしょうか?
必ずしもそうではないようです。
「口」となる地点は七つに限りません。
「七口」というのは、日本全国(当時)の七つの行政区画、東山道・北陸道・東海道・山陰道・山陽道・南海道・西海道と都とを結ぶ出入口であったから、という説が有力のようです。
「七道口」と呼ばれることもあったとか。
「七口」という言葉が使われはじめるのは、関所が置かれる鎌倉時代以降ですが、「七口」のルーツは古来より全国を示す呼び名である「七道」にあったのですね。
京街道=〇〇道?
ちなみに、京へ続く街道はおおむね「京道」や「京街道」と呼ばれます。
但馬から京都への京街道、若狭から京都への京街道など、四方八方から京都へ向かう「京街道」が伸びていました。
反対に、京都から各地へ向かう道は、若狭街道や伏見街道など行き先の名前がつけられています。
それで、ひとつの道がふたつの名前をもつこともあったようです。
「七口」の中にも、ひとつの口がふたつの名前をもつものがあります。
五条口=伏見口がそれです。
五条というのは京都内の地名であり、伏見というのは口から出た伏見街道の先にある街の名前です。
おもな七口
「七口」のそれぞれの口の名称は、いまでも駅名や停留所名に使われています。
鞍馬口、荒神口、伏見口(五条口)、丹波口(七条口)などは、案内版やガイドブックで目にする機会も多いのではないでしょうか。
ほかにも、「七口」には以下のようなものがあります。
- 大原口……若狭街道へ。鯖街道の終点でもあります。
- 三条口(粟田口)……東海・東山・北陸道へ。軍事上の要衝であり、しばしば合戦が行われました。
- 竹田口……竹田街道へ。伏見街道とともに、京と伏見を結ぶルートのひとつです。
- 東寺口(鳥羽口)……鳥羽口からは、鳥羽・大阪方面へ。
室町期に開かれた東寺口からは、神戸に上陸した明使や朝鮮使が、西国街道を辿って入京しました。 - 長坂口……長坂越へ。丹波街道とともに、京と丹波国(山陰道)を結ぶルートのひとつです。
「京の七口」と人々
それでは全国七道から京に来た人、京を出た人たちを見てみましょう。
海の向こうから・渤海使たち(727-920の記録あり)――北陸道・加賀国
朝鮮半島北部の高句麗が唐・新羅によって滅ぼされたあと、高句麗の遺民と粟末靺鞨(ぞくまつまつかつ)人を大祚栄(だいそえい)が率いて成立した国が渤海です。
882年、加賀に到着した渤海使裴頲(はいてい)らのために物資を送り、街道をきれいにするよう命じた記録などが残ります。
渤海使は、西側の山陽道から入ることもありました。
926年、渤海が契丹の耶律阿保機(やりつあぼき)に滅ぼされてのち、929年、裴頲の子の裴璆(はいきゅう)は、渤海使としてではなく、契丹に属する東丹国の使者として来日しました。
●東鴻臚館跡(ひがしこうろかんあと・下京区)
七条口(丹波口)付近。
京を訪れた渤海使へのねぎらい(郊労)が行われました。
漢詩の贈答が行われることもあったようです。
現在は石碑とともに、「白梅や 墨芳しき 鴻臚館」という与謝蕪村の句碑が立ちます。
JR丹波口駅(千本五条)は、これより500mほど北に位置します。
才人・在原行平(818-893)――山陰道・因幡国
855年から2年間、因幡守として赴任します。
その後も地方官と京官を歴任したほか、一族の子弟のため、881年に奨学院を創設しました。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」百人一首
因幡国に赴くけれど、そこの山の峰に生える松のごとくあなたが待っていてくれるというなら、すぐに帰りましょう。
この歌を唱えれば、いなくなった猫が帰ってくるともいわれています。
●京都観世会館(左京区)
能の演目「松風」は、「立ち別れ」の歌を題材にして観阿弥がつくりました。
かつて須磨に滞在した行平を想いつづけるふたりの女性が登場する夢幻能です。
天神・菅原道真(845-903)――西海道・太宰府
文武にすぐれ、877年には文章博士となって歴史や漢文学を教えます。
家集『菅家文草』には、883年、鴻臚館(こうろかん)で渤海使裴頲(はいてい)と贈答した詩「鴻臚贈答詩」が収められています。
「自送裴公万里行 相思毎夜夢難成 真図対我無詩興 恨写衣冠不写情」菅家文草
裴頲の君が遠くへ旅立ってしまってから、夜ごと眠れず、夢もろくに見ない。
彼の肖像画は、何の詩興も呼び起こさない。
姿かたちを写した絵も、情までは写してくれない。
●北野天満宮(上京区)
宇多上皇と醍醐天皇のグループ争いに巻き込まれた道真は、901年1月、太宰府に左遷されることになりました。
のちに天神様として祀られています。
梅の花が咲いて春の始まりを告げます。
「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」拾遺集
東風が吹いたら匂いを届けてくれ、梅の花。主がいないからって、春を忘れちゃだめだよ。
(東風=東から吹く風。「こち」読みで春の季語)
物語を夢見て・菅原孝標女(1008-1058以降)――東海道・上総国
父・菅原孝標の任地である上総国で生まれ育ちますが、都で噂の源氏物語が読みたくて仕方がありません。
『更級日記』は「かどで」から始まります。
菅原道真とは血縁関係です。
●六道之辻(東山区)
大の物語好きとして知られる彼女ですが、『更級日記』には同時に、乳母や侍従大納言のむすめなど大切な人のあっけない死に直面し、物語のことさえ忘れるという場面が出てきます。
六道之辻は、墓所鳥辺野(とりべの)へ続く道筋にあり、あの世とこの世の境界線とされてきました。
「散る花も 又来む春は 見もやせむ やがて別れし 人ぞこひしき」更級日記
散る花もまた春が来れば見ることもあろう、けれど貴女はもうどこにもいない。
同じく花の咲き散る折、「いみじうをかしげなる猫」が現れ、「おのれは、侍従の大納言殿の御女のかくなりたるなり」と夢で告げたという話も記されています。
天下人・羽柴秀吉(1537-1598)――山陽道・備中国
本能寺にて主君織田信長が討たれたことを知った秀吉は、すぐさま備中高松城の戦いからとって返し、仇敵明智光秀を討ちます。
中国大返しと呼ばれる大強行軍でした。
●御土居(おどい・北区)
天下統一後、秀吉が京都に築いた壁と堀です。
現在、北区の長坂口付近に遺構がよく残っています。
京都を囲む壁の、四条大橋に入り口がつくられなかったため、祇園社は神幸祭(しんこうさい)で神輿を出す際、三条口まで迂回しなくてはならなかったとか。
このほか東山区の五条口(伏見口)近くには、落雷で焼失した大仏殿跡、鐘銘事件のあった方広寺、朝鮮出兵のときの耳塚など、秀吉ゆかりの史跡が多くあります。
「七口」を通じて、いくつもの別れと出会いを映し出してきた街、京都。
今年もまた春が巡ります。
新しい環境で緊張しているな、疲れているなと感じたら、まずはゆっくり深呼吸をしてみてください。
よい一日を。
参考文献
水本邦彦編(2002)『街道の日本史32 京都と京街道 京都・丹波・丹後』吉川弘文館
浜田久美子(2011)『日本古代の外交儀礼と渤海』同成社
横道萬里雄・表章校注(1960)『謡曲集 上』岩波書店
川口久雄校注(1966)『菅家文草 菅家後集』岩波書店
西下敬一校注(1978)『更級日記』岩波文庫
中村武生(2005)『お土居堀ものがたり』京都新聞出版センター
梅林秀行(2016)『京都の凸凹を歩く』青幻舎