英文学者からの転身。作家・夏目漱石のルーツは正岡子規にあり?【漱石@京都・前編】
2017年は、夏目漱石(1867-1916)の生誕150周年にあたります。
2016年は、49歳で亡くなった漱石の没後100年の年でした。
国語の便覧の「文豪」のページでは、必ずといっていいほどお目にかかる漱石。
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(1)などの書き出しでも知られていますね。
漱石ゆかりの地としては、牛込の生家のある東京をはじめ、『坊っちゃん』の松山、『草枕』『二百十日』の熊本が有名でしょうか。
漱石は、京都にも4度訪れています。
1度目は、1892年の夏、同じ1867年生まれの正岡子規とともに。
2度目は子規没後の1907年春、3度目の1909年秋、晩年の1915年春です。
『虞美人草』『京に着ける夕』は、2度目の旅の風景をもとに書いたもの。
生涯4度にわたる京都への旅は、漱石にとってどのようなものだったのでしょう。
前編「正岡子規と夏目漱石」・後編「祇園と夏目漱石」としてお送りします。
今回は、漱石のことをよく知るという猫さんにインタビューしてみました。
――まず、自己紹介をお願いいたします。
夏目漱石(本名:金之助)のプロフィール
――では、漱石について簡単にご紹介いただけますか。
1916年12月9日に満49歳で没している。
――満49歳ですか。若くして亡くなられたのですね。
食べすぎと神経で胃を痛めつけ、最後は胃に命をとられてしまった。
伊豆の修善寺で血を吐く前も、牛乳を飲んだ口直しにアイスクリームをとっていたというから、養生する気があったのかはなはだ疑問である。
――食べることのほかには、何がお好きでしたか。
また渋好みのくせに大のおしゃれで、人のおしゃれを見るのも好きであった。
――苦手なものは何かありますか。
ただ当人としては、怪談が苦手だったようである。
頭では怖くない怖くないと思っていても、じっさい寝がけに怪談話などされると怖くてねられないというのだから、やはり怖がりだったのである。
――なんとなく、子供のようなところのある人ですね。
父・直克、母・千枝の間に生まれた末っ子だが、父の年とってからの子だというので「みっともない」とされ、まもなく四谷の古道具店に養子にやられた。
古道具店では、大空のもと道端のおひつ入れに入れられていたというから、状況は吾輩と大して変わらんのである。
乳離れしたあとは、父の知り合いの塩原家にやられた。
漱石が成長して鏡子夫人との家庭を築いてからも、塩原家からはたびたび金をせびられる憂き目にあった。
――「金さ君(きみ)。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」という、『こころ』の先生の言葉を思い出しました。
昔から大泥棒になるとされた申の日の申の刻(16時を中心とした2時間)生まれで、それを防ぐために金之助という名前をつけたのに、結婚後の夏目家は逆になにかと泥棒に入られていたようだ。
――漱石というペンネームを使い始めるのは、いつ頃のことですか。
子規の『七草集』というのは、漢詩・漢文・和歌・俳句・謡曲・論文・擬古体小説の七つの文体で作った文集であって、これが彼らの交友を深めるきっかけとなった。
子規と漱石
――正岡子規との関わりについて教えてください。
亡き友の『七草集』に書きつけた「漱石」を、なぜ漱石は使い続ける?
――「漱石」は、一生の生業になったのですものね。
そいつを見出したるは子規。
文集『七草集』に漱石が漢文でつけた評をみた子規は、出来ばえに感嘆し、「その喜び、知るべきなり」(4の解説)といっている。
尊敬すべき友に出会えた子規、漱石、両者の喜びは無上のものであったろう。
英語教師として松山や熊本に赴任している間も、「子規とのつながりが常に漱石を文芸の世界に結びつけていたのである」(3の解説)
子規は1902年9月19日に満34歳でこの世を去っている。
ロンドン留学中であった漱石には、無量の思いをどうすることもできなかった。
のちに「手向くべき線香もなくて暮の秋」(4)という句を送っている。
しかし、かつてその才を祝福し合った友との記憶は、文芸の道を歩むと決めたのちも、怖がりの「漱石」を絶えず勇気づけたに違いないのである。
1892年7月の京都行
――初めて京都を訪れたとき、子規と一緒だったのですね。
子規がふるさとの松山に帰省する道すがら、麩屋町の柊屋に泊まり、夜、清水寺などみている。
1907年3-4月の京都行
――1907年、ひとりで京都にいらっしゃったときは、しきりに「寒い」とおっしゃっていますね。
15年前、一緒に歩いた子規はもういない、「無限の幽境」に行ってしまった。
「子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行(ある)いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した」(5)
「原に真葛(まくず)、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう」(5)
――なぜ、京都に行こうと思い立たれたのでしょう?
1907年3月、教職を辞して朝日新聞社へ入社すると決めたのは、漱石にとって一大決心だったようだ。
――「年来の垢」とはどういうことですか?
という漱石の「病気」は帰国してからも継続した。
足の裏の黒い子猫(福猫)が夏目家に闖入してくるのは、1904年の夏の始めである。
――それが『吾輩は猫である』の灰色に斑のある猫なのですね。
下鴨、上賀茂、祇園、清水、寺町、東寺、嵐山、八瀬、宇治など各地を飛び回ったのち、東京へ。
職業作家として初の作品『虞美人草』を書きます。
後編「祇園と夏目漱石」につづきます。
正岡子規と夏目漱石・略年表
1867年2月9日、漱石誕生。10月14日、子規誕生。
1889年1月、第一高等中学校(のちの東京大学)にて出会う。
5月9日、子規喀血。
1892年7月8日、子規の松山帰省の道すがら京都へ。
1900年10月、漱石ロンドンへ留学。
1902年9月19日、子規永眠。
1903年1月、漱石ロンドンより帰国。
1904年12月、漱石『吾輩は猫である』を書き始める。
1907年3月28日-4月10日、漱石、京都へ。
参考文献
1.夏目漱石(2011)『草枕』青空文庫
2.夏目鏡子述・松岡譲筆録(2016)『漱石の思い出』文春文庫
3.夏目漱石(1992)『吾輩は猫である』新潮文庫
4.和田茂樹編(2009)『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫
5.夏目漱石(2011)『京に着ける夕』青空文庫
6.夏目漱石(2006)『硝子戸の中』岩波文庫
7.夏目金之助(1995)『漱石全集 第十九巻』岩波書店
8.夏目漱石(2010)『こころ』青空文庫