京都空襲と建物疎開。白川の水が伝える夏目漱石【漱石@京都・後編】
2度目の京都行の見聞をいかした1907年『虞美人草』ののち、1908-1909年には『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』『永日小品』『それから』とすぐれた作品を次々に連載。
しかし、1909年8月に持病の胃を患います。
10月に満州・韓国旅行からの帰路で京都に立ち寄りますが、「腹痛む。元気なし」(1)
翌1910年8月、修善寺(しゅぜんじ)の大患が漱石を襲います。
前編「正岡子規と夏目漱石」にひきつづき、漱石をよく知るという猫さんにインタビューします。
修善寺の大患
――たいへんな吐血だったと聞いています。
当人は吐血の間も自分の意識はしっかりつづいていたと思っていたようだが、そんなことはない、三十分も不明の状態だったのである。
鏡子夫人の回想によれば、「その間に夏目は私につかまって夥(おびただ)しい血を吐きます。私の着物は胸から下一面に紅に染まりました」(2)
――尋常ではないですね……よく回復されましたね。
「何事もない、又何物もないこの大空は、その静かな影を傾けて悉(ことごと)く余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった、又何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った」(3)
――澄んだ文章ですね。
人との約束を必ず守る代わりに、人に嘘をつかれたり、約束を破られたりするのがこたえるようだ。
そういえば、祇園の芸妓に「うそをつかないように」と手紙を送ったことがあるのだ。
1915年3-4月の京都行
――それは、どんなことだったのですか。
それから祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将で「文芸芸妓」と呼ばれた磯田多佳=御多佳さんである。
暖かければ北野の梅を見に行こうという御多佳さんのことばをたよりに電話をかけたが、宇治に行っているからいないと言われる。
漱石はひとりで出かけ、結果、具合をますます悪くしてしまう。
――約束をすっぽかされた、ということでしょうか?
しかし漱石はのちの手紙で「あなたに対してそうした黒人(くろうと=玄人)向の軽薄なつき合をしたくないから」「うそをつかないように」(4)と書き送っている。
――芸妓という役割からではなく、心からの交流がしたかったということでしょうか?
とはいえ、漱石の心が御多佳さんに通じなかったわけではあるまい。
漱石が東京に帰ってからも、ふたりの交流は続いたようである。
漱石の死後
――漱石が亡くなるのは、そんな京都行の翌年のことですね。
夫人をはじめ、子供たちや門下の人々、多くの人が漱石のもとに参じたそうだ。
――それからの祇園と御多佳さんについて、いま少し教えてください。
彼女の店「大友(だいとも)」は戦争中の建物疎開の対象になり、あとかたもなくなったそうだ。
(建物疎開=空襲による火災の延焼を防ぐため、指定区域の建物を強制的に撤去すること)
1945年1月16日、祇園と同じ東山区にある馬町空襲では、数十人の死傷者が出たという。
彼女と知り合いであった谷崎潤一郎は「大友」の跡をたずねてこう記している。
「昔を語るものと云っては、畑の向うを流れて行く白川と、その淙々(そうそう)たる水音ばかりである」(5)
漱石@京都
漱石や御多佳さんの記憶を流れたであろう白川が、いまは私たちに当時の記憶を伝えてくれていますね。
かつて懐かしい友人と訪れた京都は、ときに「ずいぶん子供らしい」(2)漱石の心を、存分にあそばせることのできた場所だったのではないでしょうか。
――ところで猫さんは、京都を歩かれたことがありますか?
祇園と夏目漱石・略年表
1910年8月、修善寺の大患。
9月18日の日記に「金之助といふ芸者も愛読者のよし」
1915年3月19日-4月16日、漱石、京都へ。
1916年12月9日、漱石永眠。
1945年1月16日、東山区馬町空襲。
5月15日、磯田多佳永眠。
参考文献
1.夏目金之助(1996)『漱石全集 第二十巻』岩波書店
2.夏目鏡子述・松岡譲筆録(2016)『漱石の思い出』文春文庫
3.夏目漱石(2005)『文鳥・夢十夜』新潮文庫
4.三好行雄編(2005)『漱石書簡集』岩波書店
5.谷崎潤一郎(2005)『月と狂言師』中公文庫